昭和54年4月18日  朝の御理解    大坪かよこ

御理解第8節
 子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。




 今日は、十八日の日に、八節のご理解を頂くですから、広かりに広がるおかげを頂くためのような、感じがしますね。
今度の御大祭に久富先生が、今度は米が八十八表です、で、お弁当も八百八十ちゅう、ほー、そりゃ中々縁起がよかの、ち私は、ところが実際、お祭りを拝まして頂く時に、えらーい、お米が少なかったでしょう。
ね、低かったでしょう。どうしてのちゅうたら、もう八十八表でやめました、ちゆう、まーだ沢山来とるのに、あんたそげんわざわざやめんでん良かっとるとろところで、まだ、あれ何十表積まるるとじゃったんですよ。
料が来とったから、それを久富先生が、もう、お弁当も八百八十、お米も八十八表ちいうごたあるふうで、もう八十八表に決めちゃったわけだ。
なら、八百八十でもよかってすからね。
だから、その結局、ま、広がりに広がるということ誰でも、んー、喜ばんものもありませんし、また願わんものもありませんよね。
今度のあの、御大祭の私のお話しを聞いて下さったら、ま、大体そのことが芯だったと思うんですけれども、とにかく信は光なり、信は力なり、ね、ですから確かに信は光です、信は力です。
けれどもその力がです、ね、いうならば、十人力よりも百人力、百人力よりも千人力と、同じ光でもです、ね、小さいなら、五色光の光よりも、ね、百色光、千、万色光というように、大きな光にならなければ、大きく、いうならば、潤すことはでけませんものね。
私は、あの、ま、今日皆さんがお話を聞いて下さるのにね、この御理解八節は、いうなら、くずの子ほどかわいいとか、信心のないものほうがかわいいとか、というところは、もうみなさんが充分分かっておられるとじゃから、どうぞ信心して、おかげを受けてくれよという神心、切願です。切なる願いなんです。
ね、この頃、高松和子先生が、卒業、そしてそのことの、御礼お届けを金光様へさせて頂いたときに、ね、金光様、どうぞお道の教師に御取立ていただきました。どうぞ、私にかけられる神様の願いが、御成就に相なりますように、というて、お願いをさせて頂いた。
ね、そしたらそれこそびっくり、これは私がびっくりしたんですけれどもね、実は和子さんがびっくりしたっちゃない、ね、もうその、そうじゃ、と仰ったその声がね、私に響いてくる感じがしたんです。
だから、私が、びっくりするような、と、そうじゃ、と仰ったちゅうんです。
ね、だからね、これは、どんなに、たとえば、私にかけられるその神願が、そのご成就に相なりますように、というても、神様の願いがどういうふうに、大きく私どもの上にかけられておるかはもう、限りがないです。
梅山先生が今度帰るときに、この頃から、修行に行きました教会の先生がちょうど、御大祭でお会いした。
そして、あの梅山さん、帰りがけにちょっと自分のうちによってくれといわれる。おばあちゃん達がまっとるからと、ま、大変評判が良かったらしい、ほいで帰りよらせて頂いたら、色紙に無尽蔵と書いてくださった、とこう言う。
ね、してそれを持ってここに参りましたが、もうほんとにあの、無尽蔵のおかげの頂けれるということ。
ね、いうなら、もう、八から八十八、八十八から八百八十、八千八百というようにです、もう広がりに広がっていくというおかげを頂くためには、どうぞ信心しておかげを受けてくれよなんです。
ね、だからそれを受け止め、それを頂きとめさせて頂くということは、もう限りなき信心修行が、間違いなく、例えば昨日のご理解を頂きますと、ね、死んでもままよという、心にならなければ、ね、お徳が受けられない。
神様は、もう、一様におかげを下さってあるんだけども、受け物が悪いとおかげが漏るぞと。
だから、その信心しておかげを受けてくれよということは、もうとりもなおさず、おかげの受けものを作るということなんですよね。
そのおかげの受けものを作るときにです、私どもが、ね、日頃の信心に物言わして、いよいよどんな場合であっても、神様中心、ね、昨日のご理解にも申しましたように、とにかく人情教から、神情教、ね、人間心をどんなに行き届いとしてもです、人間心だけでは助からん。
ね、人が馬鹿んごと言うても、その人の心の中に神情が強かったら、人も助かる自分も助かる。家は繁盛する、教会は発展する。
ね、神情には限りがないからです。人間の、情というものには、限りがある、もうこれ以上のことは、できないということなんです。
人間の一握りは、これだけだけど、ね、神様の一握りはどれだけあるじゃら分からん、ね、久留米の初代のこれは御教えです。
ね、だから、人情を外すということが、どうぞ信心しておかげを受けてくれよという内容にもあることが分かりますね。
ね、とにかく、私が思いよることが、神様が思いござると、も、人情をそれに変わってくるんです。
段々そこんとこをおかげ頂いてくると、私がいよるとは私じゃないな、これは神様が言いござるとじゃなと、思うような、いうならば、おかげが段々頂けてくるようになる。
それを私はご神徳だとこう思うです、ね。
昨日、研修のときに、泉尾の先生と私との対談の中に、泉尾の先生が、こういうことを言っておられます。
辛抱のし比べ、と。いわゆる次には、尽くし比べということを言っておられます。
もちろんこれは、真心の尽くし比べ、ということです。
ね、ですから、もうたとえば、ままよという心は死んでもよいというほどしのことだと、一心とそこに腹が決まるということなんでしょうけども、ならそれだけではいけん。
もう、自分のままよでおるからだけでじゃいけん。
ね、いうなら、信心の修行をさして頂くことにでも、やはり、辛抱力というものがもう、いよいよ限りなくでけにゃいけん。
同時にそれだけでもいかん、神様に対する真、真心のいうならば、尽くし比べ。
玉水の湯川先生、いわゆる泉尾の三宅先生の師匠になられるわけです。
ある教会の偉い先生が、あの、ま、その時分におられた。
全国でもま、五人の手の中に、指の中には入るほどしの、先生がおられる。
その方の先生の、一人をいうて、ね、お前があのくらいになるためには十五年かかるだろう、といわっしゃったげな、ね、ほいでもう一生懸命なってね、ちょうど十五年の半分で、ま、同じになった、という話をしておられます。
そういう意味のことが幾つも例話があったですね。
お前があのくらいなおかげを頂くためには、五年はかかるだろう、といわれたのも、それも二年か三年でおかげを頂いたと。
ね、そのなら、内容がどういうことであったかというと、辛抱のし比べであった、真心の尽くし比べであった、と言っておられるです。
素晴らしいですね。
ね、どうぞ信心しておかげを受けてくれよ、五色光の光、ね、十人力、ね、五人力、三人力とまあいう、いいましょうかね、力というのは。
ね、そいで、あんた達がどうでも一人で、百人の人が助かるような、百人力頂きなさい、あんた十年ぐらいかかるじゃろうと、言われるときに、と、ま、仮定してですたい、ね、自分の周辺に百人ぐらいの人が助かる、ね、それも、十年もとてもかからん。
もひとつ、本気で頑張ろうと、その頑張る内容が、辛抱のし比べであり、ね、真心の尽くし比べなんです。
そうでしょうが、ね、どうぞ信心しておかげを受けてくれよ、ということは、そんなことだとおもう。
私はそういう意味で、今度、二十三日の起工式にはね、できるだけ沢山の人にね、集まって頂いて、いよいよ、合楽建設が始まるという意識を皆がもってもらいたいと思う。
そしていうなら、真心の尽くし比べを、皆さんに、いっちょしてもらいたいと思う。
ね、そういう意味でです、あの、別にご案内がいうわけじゃ無いでしょうけれども、どうでも、あの二十三日の起工式には、お互い、いうなら、神様の神願が成就する、いうなら、一つのま、足がかりのようなもんですから、ね、私共の信心の、いうならば、どうぞ信心しておかげを受けてくれよ、といわれる、その手がかりとしてです、ね、いよいよね、真の尽くし比べ、ね、そのためには、辛抱のし比べ、といったような、内容を持っての、信心しておかげを受けてくれよというその内容が、そのような、ところにおかれたら、素晴らしいことでしょうね。どうぞ。